わたくし PON がどんな人間なのかこの世に生まれてから現在までを記していきます。結構・・・長いです。最後まで読んでもらえるかな!?(笑)

1967-1974年 幼少期

1967年11月 北海道小樽市で生まれる。親の話によると大雪の日だったらしい。

幼少の頃の記憶はほぼないが、親から聞いた話だと夜中に「きしゃ、きしゃ」と言いだし、小樽築港駅の機関車の車庫まで連れて行ってもらって蒸気機関車を見て喜んだり、親がふざけてビ〇ルをちょっと飲ませたら「おかわり」要求してきたとか!?もちろん本人にその自覚も記憶もない。

好きなテレビ番組は「ひょっこりひょうたん島」だったと親から聞かされるが、本人はまったくその記憶がない。

1974-1980年 小学生時代

小樽市立花園小学校に入学する。

入学早々、横断歩道を横断中に走行してきたバイクに跳ねられ宙を舞う。停車していたタクシーのボンネットの上に着地(?)したので助かったとの親の話を聞かされる。近所の整形外科医院に運ばれそのまま入院・・・2週間で「うるさい」というのが理由で退院させられる。その後、弟たち3人には「おにいちゃんが頭が良いのは事故で頭を打ったからだ」とまるでバカボンパパのような扱いを受ける。

野球が好きだったのでやりたかったが、坊主頭にすると事故でできた頭の傷が見えていまい、「ハゲ」と言われるのが嫌で断念する。

3年生の冬に学校が火事になり、校舎の半分を焼失するも児童も先生がたも全員無事であった。

4年生のころ新聞でプロ野球・日本ハムファイターズの大沢啓二監督(当時)のコメントがツボにはまり、それ以来ファイターズのファンとなる。

1980-1983年 中学生時代

小樽市立東山中学校に入学する。

入学した頃、1年前に理科室の床がシロアリにやられて抜け落ちたという話を聞かされる。それが決定打だったのかはわからないが、その後校舎の建て替えが行われた。

当時はツッパリブーム(?)で学校内にもそれっぽい生徒が結構いた。私はそっちのほうにはまったく興味がなかったので、大人(先生がた)を味方につけ、やられそうになったら職員室に避難していた。

卒業間際に下級生が暴力事件を起こし、全国ニュースでその話題が流れる。その影響か私たちの卒業式の日には道内のテレビ局が取材に来ていた。

部活はなんとなくバレーボール部に入ったけれどなじめなくてフェードアウトし、朝夕の新聞配達のアルバイトに精を出す。おかげでお小遣いやお年玉だけでは絶対に買えないビデオデッキ、テレビ、パソコンを買うことができた。新聞配達をやっていると周りの大人から「大変だね」と言われたが、収入のほとんどは自分のために使っていた。それについては親も文句は言ってこなかった。(少しは親に渡したけどね)

1983-1986年 高校生時代

北海道小樽潮陵高等学校に入学する。

とりあえずどの高校に行きたいってこともなかったので、担任の先生に言われるがまま受験して合格する。(できれば勉強はしたくないのだが)

私たちが入学する前の先輩方ががんばってくれたおかげで制服から解放され喜ぶ。(みんな同じ格好をする文化に抵抗があった)

部活はやはりバレーボール部・・・1回だけ辞めかけたことがあったが、仲間がわざわざ自宅までやってきてくれて必死に引き留めてくれ・・・最後まで続けることができた。でも試合ではいつもベンチを温めてたけど(笑)

入学当初はなんとなく国公立大学に進学しようかと思っていたが、当時の共通一次試験では必須であった国語(特に古文・漢文)、歴史(世界史・日本史)をどうしてもやりたくなくて・・・2年の途中で私立理系大学に進学する方針に転換・・・親の承諾も得る。古文や漢文、歴史をやらないことについて「過去は振り返らない」と言っていた。

1年生のときの冬に始まった高校生クイズに仲間2人をなんとか集め第1回から第5回まで連続出場した。予選突破はならず・・・

大学受験は最終的に関東の4大学・5学部を絞り込み受験・・・結果的に2学部合格をいただき現役合格作戦は成功した。

1986-1990年 大学生時代(東京)

日本大学文理学部数学科に入学する。

憧れの一人暮らし・・・新聞奨学生になるからと親を説得して受験が許されたため、渋谷区のとある新聞の専売所のアパート暮らしを始める。4畳半1間・風呂なしのボロアパートで、生まれて初めてゴキちゃんと遭遇・・・一戦交えた。

朝早くから新聞を配り、戻ってくると食事をつくってくれるおばちゃんがたくさん食べないと怒るので・・・仕方なく・・・無理して・・・食べた。おかげで部屋に戻ると眠くなり・・・それを試験の日もやってしまい・・・1年目は単位を落としまくった。

これでは4年で卒業はキビシイので親と相談し、奨学生は1年でやめることにした。1年分の奨学金はいただき、前期分の学費と転居費用はそこから捻出した。

2年生からは大学から遠いけど低家賃の部屋を求め多摩方面へ・・・ワンルームの部屋を借りる。

落としまくった単位を回収することが大事だが、1限の講義を受けるためには地獄のラッシュが避けられないので・・・極力2限からの講義を受けられるプランを立てる。決してまじめな学生ではなかったが、なんとか4年で卒業することはできた。

入学当初は新聞奨学生だったのでサークルなんて・・・と思っていたが、なんとなくお昼に体育館でバレーボールをやっているサークルを見てしまい・・・そのまま入会した。でもこのサークル活動がとても楽しかった!!おかげで楽しいキャンパスライフを送ることができた。

東京に出てきたからには憧れの後楽園球場に通い、ファイターズの試合を観戦しに行っていた。球団歌を大好きなアニメ・宇宙戦艦ヤマトの主題歌を歌っているささきいさおさんが歌っていることを知る・・・ますますハマる。1988年からは真新しい東京ドームで観戦するが、ファンクラブ割引があまり利かなくなり金銭的に苦労する。

東京に出てきたからには大好きな河合奈保子さんのコンサートやライブにも足を運ぶ。7月24日のバースデーライブには何度か通った。

学科の愉快な仲間との日々も楽しかった。仲間と麻雀中にポンするときに「ポーン」とよく鳴いていたので「ぽんちゃん」と呼ばれるようになる。これが気に入り今でも使っている。

就職を考えたとき、夏の暑さと通勤ラッシュにとても耐えられないと感じ、北海道での就職を模索する。当時はバブルで売り手市場だったため、メーカー系で札幌にあるソフトウェアハウスへの就職を早々に決める。

大学の卒業式の前夜に遅くまで飲み歩いていたため、寝坊して卒業式に出席できなかった。(笑)

1990-1997年 第1期サラリーマン時代

汎用機のシステムエンジニアとして主にCOBOLを使って仕事をしていた。中3でパソコンを買って以来BASICをずっと使っていたので、型にきちっとはめないといけない面倒臭さを知る。

入社して1年もしないうちにバブル崩壊・・・仕事が一気になくなる。やることがなくなってしまったので、仕事中になぜかオセロゲームをつくって遊んでいたことも・・・

27歳のときに結婚する。楽しいこともあったが、些細なことでぶつかり合うことが多くなり悩んでいた。仕事も汎用機よりもパソコンの仕事をしたいと思うようになり、環境を変えるために転職を考えるようになる。

1997-1999年 第2期サラリーマン時代

埼玉県にあるオープンシステムを得意とする小さなソフトウェアハウスに転職する。私にはやはりこっちのほうが性に合っていると感じた。

環境は変えたものの夫婦関係は改善されず離婚を決意する。離婚するには相当なパワーが必要で、離婚届を提出するまでの約半年間は眠れない日々もよくあった。

心のすき間を埋めるためではないが、会社のサーバーをちょっとお借りしてファイターズの応援サイトを立ち上げてみた。少数派のファイターズファンとの交流の場となり多くの仲間と知り合う。

1999-2005年 第1期フリーランス時代

当時付き合っていた(同棲していた)彼女の精神状態があまり良くなく、一緒にいる時間を多くとるためフリーランスになることを決める。(結局別れましたが)

自宅にWebサーバーを置き、専用線を引き、自分のドメイン「ponchan.net」を取得し運用を始める。

自由な時間は増えたが安定した収入はなくなり結構大変な思いをした。でも、朝方に寝て昼頃起きる生活は最高だった。

ファイターズファンの仲間も増え、球場での応援はもちろん草野球チームも結成し、仲間と一緒に盛り上がっていた時期であった。

そして衝撃のニュースが・・・ファイターズが2004年に札幌に移転することが決まる。幼いころから「東京のファイターズ」のファンであった私は、地元の北海道にチームが移転することを素直に喜べなかった。東京に多くの仲間がいたし、移転に反対している仲間もいた。北海道出身ということでいくつかのメディアの取材を受けたが、内心迷いはあった。

仕事の調整をしつつ、ファイターズ移転から遅れること1年ちょっと・・・2005年9月に私も札幌に移転することにした。

2005-2010年 第2期フリーランス・苦難の時代

札幌に引っ越しをしてそれまでお付き合いのあった埼玉県の会社さんと札幌の会社さんの2社の仕事を引き続き行っていたが、リーマンショックにより2社ともに仕事がなくなり苦境に立たされる。SEとしての仕事だけではやっていけなくなり、仕方なく塾講師のアルバイトを始めるが、2年で教室が閉鎖になってしまった。

札幌ドームの近くに住み、試合にたびたび足を運んでいたが、新しいファンとの「温度差」を徐々に感じるようになる。

埼玉在住時から徐々に自分の重量が増していたので、札幌に引っ越しをしたらどこかのスポーツクラブに通って減量しようと思っていた。たまたま入会したスポーツクラブにダンス系のプログラムがあったので、参加してみたら・・・はまってしまった。最初のうちは視線が冷たかったが、あるとき同じプログラムに参加していた女性から声をかけられて親しくなったところから一気に雪解けして、黒一点でも違和感がなくなる。それからというものはいろいろなダンスプログラムに参加するようになり、ダンスからは離れられない体になってしまう。

時間だけは持て余していたので有意義に使ってはいたが、いかんせん収入が少なく・・・実家から帰還命令が下る。

2010-2017年 小樽帰還・家庭教師の時代

高校卒業以来、約30年ぶりに実家のある小樽市に戻ってくる。

さっそく仕事探しをしたところ家庭教師の求人があり、小樽市内に事務局兼教室を構える全国ネットの家庭教師派遣会社の講師となる。小樽市内や近郊で生徒の家庭にお邪魔して教えたり、教室でも生徒を教えていた。いろいろな生徒と関わっていくうちに生徒たちからいろいろなことを教わったような気がする。理不尽なことがあっても「不可抗力」と言い聞かせてスルーできる能力を身に着ける。

システムの仕事は細々と続けてはいた。

小樽に戻ってからも札幌のスポーツクラブまで通い、ダンスのイベントにも数々参加する生活をしていたが、さすがに体力的にもしんどくなり、地元小樽で踊れる場所を探すことにした。移ったスポーツクラブにはダンススクールも併設しており、年に1・2回あるダンスイベントにも参加していた。

また、自分でもダンスチームをつくって自らプロデュースしたチームでダンスイベントに参加するようにもなる。たまにはインストラクターとしてスタジオプログラムを担当していたりもした。

2017-2018年 すうがくラボ時代

小樽に戻ってきてからお世話になっていた小樽の事務局が閉鎖されることになり、担当する生徒数も減ってしまう。かといってシステムの仕事が近所では見つからず方向性が定まらずどうしようか迷っていた。ここは自分で教室を立ち上げてみようと「すうがくラボ」という個人塾を急きょ開設する。生徒数はちらほらといった感じではあったが、家賃や光熱費を考えると厳しい状況であった。

そんな中、たまたま小樽市内の病院でシステムエンジニアの求人があることを知る。運よく採用していただいたため、「すうがくラボ」は約1年で店じまいした。

2018年- 病院職員時代

これまで医療の世界とは無縁であったが、システムエンジニアとしての経歴を考慮いただき病院の事務職員として就職し、現在に至る。

ダンスチームのメンバーから3人でユニットを組まないかと誘われ、「SnowLily」というユニットを組み活動を開始する。これまでダンスでステージに立つことはあったが、音楽でステージに立つというまた新しい刺激を受け、ライブ活動にはまる。ボーカル+キーボード+パフォーマーというユニークなスタイルで札幌や小樽市内のライブに出演する。

しかし1年も経たないうちにユニットは活動を休止することに・・・ライブの楽しさを知ってしまった私はその楽しさから離れられなくて、しかたなく「PON」というアーティスト名でソロで活動開始する。

2018年秋、ダンスチームで知り合った21歳年下の女性と2回目の結婚をする。新婚旅行は2人きりでオーストリアへ・・・妻は当初ガイドがいないと無理だと言っていたが、自らいろいろと調べて2人だけの旅行ができたことに満足はしてくれた。

ソロ活動のほうはDTM環境を整えてパソコンで演奏させて、それに合わせて歌ったり踊ったりする形でぼちぼち始めた矢先、コロナ禍で思うようにライブ活動ができなくなってしまう。

ネタはだいぶ増やしたのでコロナが落ち着いたらぼちぼち活動を再開したいと思っている今日このごろである。